人は何を求めるか⑪ 「開かれた目」 マタイ9:27-31

人は何を求めるか⑪

「開かれた目」

マタイ9:27-31

私たちが直面する様々な状況に対して、イエス様はどうされたのかを通して、私たちはどう生きたら良いのかを学んでいます。今までの一連の箇所から学んでいることは、古い皮袋と新し皮袋です。イエス様は、当時見下されていたマタイを弟子に招きました。律法学者たちには理解できませんでした。古い皮袋だったからです。イエス様がこの世に来られたのは“正しい人々ではなく、罪人と呼ばれる人々を招いて、新しい人生に招くためだ”ということが理解できなかったのです。今日は絶望について考えましょう。皆さんは絶望したことがありますか。絶望とは?絶望しそうになった時どうすれば良いのでしょうか。

1.開かれた目

この2人は、互いに励まし合っていたのでしょう。イエス様が進んで来られると「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて行きました。イエス様が家に入られるとみもとに近づいたのです!これは彼らの“信行(信じて行動する)”でした。イエス様が、「わたしにそれができると信じるか」と聞かれると彼らは即座に「はい、主よ。」と答えています。そしてイエス様は彼らの目に触れて「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われたのです。イエス様は、彼らの求めていたいやしを受け入れ、彼らはイエス様には癒す力があると信じたので、彼らの目が開かれたのです。
旧約聖書のイザヤ書35章をみると、神の時が来ると「目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開けられる」(4-7)とあります。癒しはメシヤのしるしとされていましたので、イエス様が救い主として来られたことを示しています。

2.見えない目とは

聖書をみると見えないのは盲目という意味だけではありません。“あなたがたは聞くには聞くが悟らない。見るには見るが知ることはない”(マタイ3:13-17)や“目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れだせ”(イザヤ43:8,9)とあります。イエス様が復活された後、エマオ途上の2人の弟子はイエス様だと気づきませんでした(ルカ9:16,31)。心の目が閉ざされていたからです。同様に私たちも、見ていながら理解していないことがあると注意することが必要です。思い込みや高慢さのゆえに見えていないことがあるのではないでしょうか。今起こっていることの意味を知るためにも、神の前に静まって、聞く耳と見る目が必要な時があります。自分たちの目で見えることだけで判断しないよう注意が必要です。

3.あなたがたの信仰のとおりに

ここでは癒しの本質を明らかにしています。数式で表現するなら、癒し=神の御心+私たちの信仰(信行)となでしょう。「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われたのは、神ご自身がいやしを良しとされ、求める私たちの信仰がいやしをもたらすのです。ある時は、イエス様は“わたしの心だ、きよくなれ”と言われ、悪しき霊につかれた人にはイエス様が出かけられて癒されました。中風の人には、連れて来た彼らの信仰を見て癒されました。どんなに私たちの目では不可能に見えても、あり得ないと思うことであっても、主が良しとされるならことはなされるのです。また、私たちが良いと思っても主がふさわしくないとされるときは起こらないのです。主は最善をなされる方であると信じて歩みましょう。神がなさろうとしておられても、願い、期待し、信じることがなければ起こらないでしょう(マタイ13:58)。私たちは、主の御心を求め信じて歩み出しましょう。