人は何を求めるか⑬ 「御国の福音と働き人」 マタイ9:35-38

人は何を求めるか⑬

「御国の福音と働き人」

マタイ9:35-38

 私たちが直面する様々な状況に対して、イエス様はどうされたのかを通して、私たちはどう生きたら良いのかを学んできました。先週は、震災9年目を迎えた石巻の様子を伺い主の恵みが今も現わされていることを聞くことができました。

今日のメッセージはまとめになります。山上の説教後10の癒しの御業がなされました。イエス様が、旧約聖書に約束されていたメシヤであることを明らかれたのです。多くの民が聞き従うようになったのです。それらをまとめてマタイは“イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらい癒された”と記したのです。何が、何のためになされたのかを詳しく見てみましょう。

1.御国の到来

“すべての町や村を巡って”とは、“すべての人々のところを巡り歩まれた”ということであり、すべての人々がこのことを必要としていることを表わしています。“会堂で教え”とは、“神の御心を求めている人々に、神のことばや神の約束、ご計画を語られた”のです。イエス様は、人々をさばくために来られたのではありません。“御国の福音を宣べ伝え”とは、“神の国が始まっていることを宣言され、神の国がどのようなものか、どうしたら入れるのかを明らかにされたのです。更に“あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた”とは、イエス様がメシヤであることの印として癒されたのです。“あらゆる病、わずらい”とは、私たちが抱えている“あらゆる病気、様々な障害、人間のあらゆる弱さ”を指しています。もちろんすべてが癒されるということではありません。この箇所は、神の働きが始まっていることを語っています。

2.弱り果てている羊

イエス様は、みもとに来ている人々を見て“深くあわれまれた”とあります。人々はどのような状況だったでしょうか。イエス様は、人々が“羊飼いのいない羊の群れのよう”であり、“弱り果てて倒れていた”と見られました。まず“羊飼いのいない羊の群れのよう”について考えましょう。羊は、近視眼で、身を守る術を持たず、自分で必要な草や水を捜すことができません。そのままですと迷ったり、病気になって息絶えてしまう存在なのです。羊が生きて行くためには、羊飼いが必要不可欠なのです。にもかかわらず、人間は自分の道を生きようとしているのです。正に迷える羊なのです。“弱り果てて倒れていた”とは、自力ではどうすることもできない状況であることを示しています。だから人々が、みもとに来られていることをイエス様は受け止めてくださったのです。その故に“深くあわれまれた”のです。前の訳では“かわいそうに思われた”とありました。神は、裁くだけの神ではなく、愛と慰めの主なのです。

3.収穫のための働き人

人々が羊飼いのいない羊の群れのようであるのを見られてあわれまれた結果が、なぜ弟子たちに祈るように言われたのでしょうか。イエス様ご自身が直接あわれまれたらと思いました。弟子たちに“収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい”と言われたのは何故でしょうか。しかも“収穫は多いが、働き手が少ない”と言われたのです。イエス様は、求めている人は多いのに、その求めている人に応えようとする人が少ないという現実を示されました。私たちは自分のことだけに集中しすぎていないでしょうか。働き手とは、牧師や伝道者になるということではなく神の御心を担おうとする人です。仕事をしながらでも働き手になることができます。私たちの中で主のご用のために応答しようとする人はいませんか?