人は何を求めるか⑩ 「絶望の中にも光あり」 マタイ9:18-26

人は何を求めるか⑩

「絶望の中にも光あり」

マタイ9:18-26

私たちが直面する様々な状況に対して、イエス様はどうされたのかを通して、私たちはどう生きたら良いのかを学んでいます。今までの一連の箇所から学んでいることは、古い皮袋と新し皮袋です。イエス様は、当時見下されていたマタイを弟子に招きました。律法学者たちには理解できませんでした。古い皮袋だったからです。イエス様がこの世に来られたのは“正しい人々ではなく、罪人と呼ばれる人々を招いて、新しい人生に招くためだ”ということが理解できなかったのです。今日は絶望について考えましょう。皆さんは絶望したことがありますか。絶望とは?絶望しそうになった時どうすれば良いのでしょうか。

1.2つの絶望

この2人は絶望していたと思いますか?会堂司ヤイロにとっては、12才の娘が死んでしまいそうで、長血を患った女の人にとっては12年間も治らず、治療費が尽き回復の手立てが途絶えたました。絶望とは何でしょうか。絶望しない道があります。一つは何も望まないことです。望まなけれは絶望することはありません。何かをしようと思うから絶望の可能性があるのです。もう一つは、絶望しそうになっても解決の道を見出す人です。絶望とは、私たちが限界に押しつぶされる事です。自分よりも力や経験のある人にとっては、限界はもっと先にあります。しかし人はみな有限ですから必ず限界を感じます。この2人は絶望したか、絶望しそうな人でしたが、望みを期待した人たちです。

2.2人の信仰

この2人は絶望しそうな状況でしたが、行動していることは望みを持っていたのです。限界を感じましたが、絶望したのはでなく、行動したのです。解決してくださる方のもとに行ったのです。ヤイロは、死にそうな娘を救おうとイエス様の元に行きました。イエス様なら癒してくださるかもしれないと。長血を患った女の人は、イエス様の衣を触れば癒されると信じて触れたのです。この行為は大胆な事でした。イエス様を汚れたものとする可能性があった。共に、期待し信じて行動したのです。これが信仰です。信仰とは信じることだけのように思っらり、心の中のことと思っていませんか。「信仰」とは、「信行」信じて行動することなのです。心の中のこととするから何も起こらないのです。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」ヤコブ2:17

3.光を見出す人生へ

日本では信仰を持つことが弱い人のように受け止められています。イエス様を信じるということは、人生で最高のコーチと出会うことです。人はみな完全ではありません。神様は、人を一人で生きるようにではなく、互いに支え合うように意図されたのです。ですから、お互いに助け合う必要があります。助けを必要とした時に助けられることは素晴らしいことです。しかし、人は助けを必要とする人を時には助けられないことも起こります。人はみなが欠けた所を持っているからです。神を信じるということは、完全な方によって守られ支えられるということなのです。
自分だけで一流の選手になった人はいません。自分は自分のことを何でも知っていると思っても、見えないことはあるのです。だからコーチが必要なのです。特にスランプになったり壁に直面した時にはコーチの一言が必要なのです。一流のスポーツ選手には、一流のコーチが付いているのです。ヤイロや長血を患った女の人は、自分の限界を認めましたが、絶望することなく、イエス様の所に行ったのです。私たちも人生のコーチとして最善に導いてくださる最高のイエス様に信頼し、ともに人生を歩みませんか。