人は何を求めるか⑧ 「人生は変えられる」 マタイ9:9-13

人は何を求めるか⑧

「人生は変えられる」

マタイ9:9-13?

私たちが直面する様々な状況に対して、イエス様はどうされたのかを通して、私たちはどう生きたら良いのかを学んでいます。先週は、“信仰は見える、信仰は心の中だけでなく、考え方や生き方に現れる”。主は、中風の人を運んできた4人の信仰を見て癒しをなされた。
今日は、神の御心を正しく理解しているかどうかを考えたい。神の御心と自分たちの考えが一致しているかを心に留めながら、イエス様に聞き従って来ることを再考したい。

1.招かれたマタイ

並行箇所はマルコ2:13-17とルカ5:27-32です。イエス様は“取税人マタイ”を見て、「わたしについて来なさい」と声を掛けられた。するとマタイはすべてを捨ててイエス様に従ったのです。
なぜ、マタイだったのか。取税人は、当時の人々からアム・ハーアレツ(地の民)と呼ばれ、汚れた人々、罪人と蔑まれていました。特に熱心な律法学者やパリサイ人たち軽んじられていた。イエス様は、人々から蔑まれていたマタイに、弟子になり、仲間に加わるよう声を掛けられたのです。私たちはどんな人を招こうとしているでしょうか。マタイは、イエス様の招きに即答し、立って、すべてを捨てて従ったのです。まさかの反応でした。そして、仲間の取税人や罪人とされていた人を食事に招いたのです。

2.食事に招いた人々

マタイは、イエス様のために盛大なもてなしを用意しました。そして、イエス様と弟子たち、取税人仲間や他の人々を食事に招たのです。何の為だったでしょうか。食事は親しさを表わしています。食事を共にするとは、喜びであり、楽しさでもありました。イエス様も親しく食事を共にすると言われましたし、天の御国でも私たちは共に食卓を囲むようになるのです。食事は天の恵みの象徴でもあります。この世においては、様々な身分、貧富の差がありますが、天の御国では、神が共におられ、イエス様の十字架により、民族や身分に関係なく、私たちも一つとされ、親しい交わりが用意されているのです。
マタイは、自分がイエス様に招かれて新しい人生を歩み始めたことの証しとイエス様がどんな人でも招いておられることを示したのではないでしょうか。何と、そこにパリサイ人や律法学者たちがいたことは驚きです。

3.罪人か、正しい人か

この情景を目の当たりにした律法学者やパリサイ人たちは、弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、罪人たちと食事をするのか」と驚くのです。汚れた人々であり、避けるべき人となぜ一緒に食事をするのか。共に食事をすることは、当時は禁じられていた。同じ人とみなされる危険があったのです。イエス様の答えこそ現代の私たちが改めて考え直す必要があるのです。「わたし(イエス様)は罪人を招くために来た。わたしが喜ぶ真実の愛とは何か」学ぶように言われました。今日、私たちはどんな人に教会に来て欲しいと願っていますか。どんな人に声を掛けていますか。私たちが来てほしいと願っている人々は、イエス様も招いていない人を捜しているのかもしれません。
本当に、イエス様の真実の愛を必要としている人は、罪人なのです。イエス様は、「正しい人」を招くためでなく、悩み、苦しみ、躓いている人々にこそ、人生は変えられること、イエス様に出会うことによって、どんな人でも新しく生きられるとのメッセージが必要なのではないでしょうか。あんな人が教会に来てくれたらと思う人ではなく、マタイのような人にこそ招きの声を掛けましょう。