人は何を求めるか③ 「ペテロの姑、霊的な癒し」 マタイ8:14-17?

人は何を求めるか③

「ペテロの姑、霊的な癒し」

マタイ8:14-17?

私たちが直面する様々な状況に対して、イエス様はどうされたのかを通して私たちの生き方を学んでいます。絶望、八方塞がりに遭遇したとしても、私たちには行くことのできる場所があり、私たちの声に耳を傾け、手を伸べ、触れ、解放してくださる方がおられることを学んできました。私たち自分のためにだけでなく、他の人のために執り成すことができることも学びました。今日は家族や人々の必要にイエス様はどう関われたかをみていきましょう。

1.姑のいやし

マルコ(1章)、ルカ(4章)にも並行箇所があります。共通しているのはペテロの姑が熱病で苦しんでいたが癒され、もてなしをしたといことです。ペテロとアンデレは、イエス様が家に来られても姑のことを伝えなかったようで、人々がイエス様に知らせたようです。私たちも家族や親族の救いを気にかけつつも自ら行動することがないかもしれません。なぜペテロはイエス様に姑のいやしを求めなかったのでしょうか。イエス様を煩わせたくないとの思いか、身近な者であることがいろいろな思いや状況によって躊躇したのかもしれません。今一度、新たな思いで祈り、声を掛けませんか?周りにいた人々が、イエス様に知らせたので姑は癒されたのです。姑は癒された結果、人々をもてなし始めたのです。

2.きよくない霊と病のいやし

安息日が終わって、イエス様の癒しのうわさを聞いた人々は、様々な病気の人や悪霊(きよくない霊)に着かれて人々をイエス様のもとに連れて来ました。本人たちが自ら来たのではなく、人々が連れて来たのです。癒してくださることを聞かされて来た人もいたでしょう。いずれにしても周りの人々が、関わってイエス様のもとに連れて来た結果、みな癒されたのです。癒されたというのは、今までと違った生き方を始めたということです。
人は、新しく生きるためにはイエス様と出会いが必要です。その人に必要性に気付かせることが必要なのです。良くないことやきよくない霊的な働きに囚われている方が多くいます。本人は気付いていないことが多く、良いもの正しいことと思い込んでいます。外からの何らかの働きがないと気付くことができません。

3.救い主の証し

マタイは、これらの大いなる御業は単なる癒しではなく、神の約束の成就であるとしています。イザヤ書の預言が成就したことを示しています。新しい時代が始まり、神の恵みの御業が始まったことを示しています。イザヤ書(53章)を開いてみましょう。イエス様が生まれる750年前の約束されてことばです。まさしく、神のご計画が明らかにされています。ユダヤ人だけでなく、すべての人の罪の身代わりであり、癒しと解放の約束が、イエス様の十字架によって完成し、その始まりであることを示されたのが今日の箇所なのです。私たちも、イエス様が神の御子であられ、すべての権威を委ねられたお方であり、いっさいのものの上にあり、いっさいのものをご支配しておられる方であると信じて歩みましょう。