人は何を求めるか①「絶望から解放へ」マタイ8:1-4

人は何を求めるか①

「絶望から解放へ」

マタイ8:1-4

山上の説教をされたイエス様は、天の御国の民に相応しい生き方を示されました。この世において私たちは様々な課題に直面しますが、どう生きたら良いのかの本質をイエス様ははっきりと示されました。結論として、まず神の国と神の義を求めること、みことばを聞いてそれを行うように語られました。
今回から、私たちが遭遇する実際的な必要に対してイエス様がどうされたのかを通して、私たちの生き方を学びます。第1回は「絶望から解放へ」です。

1.“ツァラアト”とは

“ツァラアト”と聞きなれないことばです。レビ記(13、14章)に詳しく記されていて、皮膚に現れるもの。不治の病とされ、罹患した者は身分や性別など一切関係なく、即宿営の外に隔離され、一生涯親しい者たち人との交流も許されず「汚れている、汚れている」と叫ぶことが命じられた。社会的にも、身体的にも、精神的にも、霊的にも汚れた者とされたのです。罹った者は、絶望を意味していました。
聖書には“ツァラアト”になった人が出てきます。モーセ(出エジプト4章:不信)、モーセの姉ミリアム(民数記12章:高ぶり)、ナアマン将軍(Ⅱ列王記5章:謙遜)は罹患しましたが彼らは癒された。悔い改めたからでした。ユダの王ウジヤ(Ⅱ歴代誌26章)は、生涯癒されなかった。主の目にかなうことを行っていた(4節)にもかかわらず、後に不従順と激しい怒りを悔い改めることがなかったため、主の宮から出され、隔離されて一生を終えました。最も深い罪の「型」です。

2.「わたしの心だ。きよくなれ」

絶望に追いやられていたこの人は、最後の望みであるイエスのみもとに来て、ひれ伏し(礼拝)、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言ったのです。イエス様は、彼の言うことに耳を傾け、手を伸ばして、触って「わたしの心だ。清くなれ」と言われたのです。ツァラアトに罹った人に触るとは、自らも汚れたものとみなされるにもかかわらずです。イエス様はすべて人を受け止め、受け入れ、きよめの力を示されました。それは、罪の無い方が私たちのすべての罪を背負い、身代わりとなって死なれる覚悟があったからこそでした。ここに聖書のメッセージがあります。

3.主イエスのもとに行こう

不治の病、絶望、八方塞がりに遭遇したとしても、私たちは行くことのできる場所があり、私たちの声に耳を傾け、手を伸べて触れてくださり、語りかけてくださる方がおられるのです。どんな人も罪の身代わりとなることはできません。イエス様だけが、ご自身の身に負ってくださることができるのです。イザヤ53:4は、予表的行為とされています。イエス様は、私たちがどのような状況にあろうとも、私たちがどう判断しようとも、御許に来られる人を受け入れてくださいます。主のもとから立ち去った方はいても、来られる人を拒否されません。絶望していようと弱さや罪に潰されていようと、癒し、赦し、きよめてくださいます。さぁ、主のみもとに行きましょう!