祝福された人⑨ 「主にあって迫害される人々の幸い」 マタイ5:11-12
「祝福された人」の最後のメッセージです。山上の説教の8つの祝福された人とは、「心の貧しい者」とは神の御心を求めて生きる人々で「天の御国は、その人たちのものだからです」と言われていました。「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く者」、「あわれみ深い者」、「心のきよい者」、「平和をつくる者」とは、天の御国に住む人々の特徴なのです。クリスチャンは、この地上にあっても神の御心に聴き、従おうことによって神の祝福に与れることを願っています。しかしこの世は神に聴くのではなく、自分たちのしたいように生きるために迫害しようとするのです。
1.「わたしのため」とは
「わたし」とはイエス様のことです。再確認ですが、聖書で「義」とは「意志と思いと行いが、神の意志に合致している」ことであり、神の御心を求めて生きることでした。10節にあった「義のために迫害されている者」とは、この世の人々は、神の御心に聴き従って生きる人々が自分たちと生き方が異なるので世は迫害するのです。罵られたり、ありもしないことで悪口を言われたりもする、というのです。イエス様に従って生きようとする者は常に迫害されてきたのです。ヨハネ15:18-19、16:7-11。イエス様もパウロもクリスチャンたちは、その時代の人々から迫害されて来ました。神の御心に生きようとしたからです。
2.大いに喜びなさい
迫害されてもなお喜びなさいとはいったいどう言うことでしょうか。「あなたがたより前にいた預言者たち」も迫害されたのです。神からのことばを託されて、民に伝えた結果、迫害されたのです。民の意にそぐわなかったからです。
私たちは人々に受け入れられようとしているのではなく、神が私たちの与えようとしている祝福こそ最良であると信じているのです。神が私たちに与えよとしておられるのは、十字架による和解のメッセージであり、永遠のいのちなのです。神の国とは、神のご支配です。人の力によるのではありません。
アブラハムも「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。…神が彼らのために都を用意されたのです」(ヘブル11:16)。
3.現代の私たちへのメッセージ
先の5:3と10節にあった「天の御国はその人たちのものだから」は、現在形能
動態で今すでに受けているということです。「今すでに受けている」とは、天の御
国はすでに来ているのです。神に聴き、従って生きようとする人々がいることが、
すでに神の国は来ていることなのです。神の確かなご計画は、主イエスの再臨に
よって確かなものとされます。私たちは、この神のご計画の中で生かされている
ことを自覚しつつ、生きることが求められています。