神を喜ぶ礼拝 ①
「新しい礼拝を主に献げよう」
イザヤ58:6-14 2011.4.3
2011年最初の礼拝です。この年、未曾有の経験をしている私たちです。大きな悲しみと、戸惑いと不安とやり場のない重い思いが心にのしかかるようです。今、私たちは何をしたら良いのでしょうか。求められていることは何でしょうか。それは、残っている私たちが、この現実をしっかりと見つめ、受け止め、この大きな犠牲を無駄にしないで、生かされている人々、次の世代に生かすことが私たちに与えられた使命です。
1.なぜ、人は礼拝に来ないのか
皆さんへの2つの質問します。1つは、“あなたは、人が礼拝に来ないことをどう思っ
ていますか?”です。日本人99.7%の人々は日曜の礼拝に行きません。この事実をど
う受け止めるべきでしょうか。しばし時間を取りますので考えてみましょう。
もう1つの質問は、“では、人はなぜ、礼拝に来ないのでしょうか?” 考えたことがあり
ますか。礼拝に来たがらない理由は何でしょうか? しばし思い巡らしてみましょう。
聖書は、神が人間を造られた時、人間をどのような存在として造られたのでしょうか。
神と共に生きるものとしてです。すなわち、神に愛され、神を愛し、神に聴き、神と共に
生きるものとして造られているのです。人間は、礼拝することが当たり前なのです。人
間が人間として生きるために、本質的に必要な礼拝に一人でも多くの人が集い、良き
人生を生きることができるようにチャレンジして行きたい。
2.礼拝を喜びの日に
皆さんは“礼拝をどのように受け止めていますか”。“礼拝はあなたにとってどのよう
なものですか?”。このことがはっきりしないと、何年礼拝していても何も変わらないよ
うに思います。ただ繰り返しにすぎません。
聖書は何と言っているでしょうか。何事においても、人は常に心のこもらない儀式に
なりやすいことを警告しています。イザヤ58:1-5には、神への礼拝が、人間中心の儀
式になっていたのです。一生懸命、主に喜ばれる日であると思っていたのにもかかわ
らずです。
“礼拝”とは本来どのようなものなのでしょうか。“わたしの好む断食は”としなが
ら“困っている人々を助けること”、その日を“喜びに日”、“はえある日”とし、自分の
望むことをするのではなく、神に聴くときに“喜び”となり、“祝福”となるのです
(58:13-14)。
3.すべてを失った者の証し
この度の“東日本大震災”で多くの方々が犠牲となりました。一瞬の内にすべてを
失いました。その時、人は何を思うでしょうか。どうするでしょうか。この時、その人の
人生観、価値観が心の奥底から出てきて、見えるようになるのです。
聖書には、すでにそのことへの“生きることば”を与えています。ヨブの経験です。ヨ
ブは、“潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。…この人は東の人々の中で
一番のふごうであった。”(ヨブ記1:1)とあります。
正しい人であったにもかかわらず、すべてを失ったのです。ですから、今回の災害も
バチがあたったのでも、その人々が悪かったからとは言えないのです。どう受けてもた
ら良いのでしょうか。ヨブは、悩み、もだえ、人々はいろいろなことを言いますが、神の
語られたことは“さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。”、“さあ、誉れ、気高さ
で身を装い、尊厳と威光を身に着けよ”(ヨブ40:7,10)。そして、“主はヨブの前の半生
をよりもあとの半生をもっと祝福された。”のです!
神を喜ぶ礼拝②
「神を賛美し、すべての民が好意を」
使徒2:40-47 2011.4.10
2011年度の主題聖句に関連する聖書個所を学んでいます。今年度の主題は「神を
喜ぶ礼拝」です。神が天と地を創造され、人間をご自身に似せて造られました。神は人
間を造られる時、人間を独りで生きる存在として造られませんでした。人は、神に愛さ
れ、神を愛し、互いに担い合い、補い合う者として造られています。人間は、神と共に生
き、神を喜び、神を礼拝する者として生きる時、平安と安心と満たされた人生となるので
す。
しかし、残念ながら人間は神に聴き、神と共に生きることを止め、自分を中心として生き
る選択をし神に背を向けました。その結果、人間本来の生きる意味と目的を見失ってい
るのです。私たちはもう一度、神と共に生きる道を取り戻すべきであると信じます。
私たちが神を喜び、神と共に生きることを選ぶなら、私たちはよりふさわしく自分自身を
生きるようになるのです。神と共に生きることの祝福を経験した初代教会の姿を見て、2
1世紀に生かされている私たちの生きる指針にしたいと願います。
1.語られた神のことば
ペテロの語ったことは、イスラエルの民に与えられていた約束に目をとめさせ、“こ
の曲がった時代から救われなさい”というものであり、今まで生きてきた人間中心の生
き方を“悔い改めて、キリストを信じてバプテスマを受けなさい”でした。
“悔い改めて、キリストの名によってバプテスマを受ける”ことが、何故これほどまでに
語られているのでしょうか。人は、キリストとの出会いによらなければ新しい歩みをする
ことができないのです。まさしく“一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一
粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。”(ヨハネ12:24)
2.教会の始まり
教会の始まりはどのようだったかが記されています。「使徒たちの教えを堅く守り、
交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。一同の心に恐れが生じ、不思議としるしが行
われた。具体的には、毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心
をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意をもたれた」のです(使徒2:44-
47)。
もし、私たちの日々の様子を現すとしたらどのような表現になるでしょうか。考えてみ
ましょう。日常の状況のほとんどは、繰り返される姿だけになるかもしれません。私たち
の生活がみことばと兄姉との関わりとなるためには、どのような状況が必要でしょう
か。考えてみましょう。
3.主が加えてくださった
人が救われるのは実なのです。主が毎日加えて下さったのであり、人が集めたの
ではないことに注目しましょう。なぜ、人は加えられたのでしょうか。この出来事は、神
の約束をエルサレムで待っていた120人ほどの信徒たちが集まっていた時に起こりま
した。そして、3000人ほどが弟子に加えられ、更にひび仲間に加えられていったので
す。
この様子は、神の御業であったことが分かります。最初のクリスチャンたちは、神の
約束や神のことばを信じ、教えを堅く守り、交わり、食事を共にするという神の共同体と
して生きていたのです。主も毎日加えてくださり、その共同体に組み合わされたので
す。教会は、主が加えてくださった人々によって結び合い、組み合わされ、建て上げら
れるのです。
さあ、私たちはどのように共同体を建て上げることができるでしょうか。ビジョン・ツァ
ーで見た光景がいまでも印象的に記憶に焼き付いています。
神を喜ぶ礼拝③
「全地よ。主に向かって喜びの声を」
詩篇100:1-5 2011.4.17
今朝は、2011年度の主題聖句を学びます。今年度の主題は「神を喜ぶ礼拝」です。神は天地を創造され、人間をご自身に似せて造られました。神が人間を造られる時、独りで生きる者としては造られませんでした。人は、神に愛され、神を愛し、互いに担い、補い合う者として生きるよう造られたのです。
しかし、残念ながら人間は神に聴き、神と共に生きることを止め、自分を中心として生きるようになり、神に背を向け神から離れてしまいました。その結果、人間本来の生きる意味と目的を見失っているのが現実です。私たちはもう一度、神と共に生きる道を取り戻し、お互いを神に愛された存在として認め、支え合う者となることが神の御心であると信じています。
今年度の中心聖句のみことばは、天地を造り、私たち人間を造られた神が呼びかけておられることばです。
1.全地よ。
神は“全地よ。”と呼びかけておられます。詩篇96:7には“国々の民の諸族よ。栄
光と力を主にささげよ”とあります。これは“すべての地の、すべての者よ”であり、西欧
人だけでなく、アジアの人もアフリカの人もあらゆる人々に呼びかけられているのです。
民族的な考えをもちやすい私たちですが、神の御前では人種は関係ないのです。
また、男も女も、大人も子どもも、金持ちも貧しい者も関係なく“全地よ”なのです。
神は“御前に来たれ!”と、私たちを神との交わりのコミュニティに招いておられます。
2.知れ。主こそ神。主が私たちを造られた
私たちは、“主のもの”“主の民”“牧場の羊”なのです。“主のもの”とは、主が造ら
れ、主の所有であるという意味。主の民とは、主を中心とした者たちであり、“その牧場
の羊”とは、主が私たちの羊飼いであり、羊を世話し、羊の安全ためにいのちをかけて
守る方であるということです。
私は今回の大震災で考えさせられたことがあります。私たちを造られた神は、今ま
でにも何度も語りかけておられたのではないでしょうか。今回の大震災は、何度か繰り
返されて来たものであり、予告されていたものでした。記録によると、1896年(明治29
年)明治三陸地震津波(M 8.2~8.5、死者・行方不明21,959人)、1933年(昭和3
年)昭和三陸地震津波(M 8.1、死者・行方不明3,064人)とありました。
私たちは“まさか自分の時には”と、どこかで思っているのです。根本的に私たちの
在り方、人生について考えるべき出来事である思わされています。私たちは“主こそ神
であり、主は私たちの神である”ことを知るべきではないでしょうか。
3.喜びの声をあげよ
何が、私たちの喜びの声になるでしょうか。どうしたら世界中の人々が、喜びと感
謝を持てるのでしょうか。聖書は、“知れ。主こそ神。”であると記しています。ここに、
私たちの源があるのではないでしょうか。私たちと主との関係の回復こそ、感謝と喜び
の源なのです。
現代の日本は、物質的な豊かさを享受して来ました。その中で気付かされたのは、
物の豊かさが必ずしも私たちの本質的な喜びにならないということです。私たちは、人
間が霊的な存在であることを考えさせられてきた矢先の大震災だったように思います。
私たちに求められていることは、人は神に立ち返り、神を喜び、神と共に生きることを選
ぶなら、より相応しい自分を生きるようになるというメッセージを伝えることではないでし
ょうか。
イースター記念礼拝
「十字架にある希望」
ピリピ3:7-12 2011.4.24
イースターおめでとうございます。私たちの救い主イエス様がこの世にお生まれになっ
たのがクリスマス、33年地上の生涯を歩まれ、私たちに人として生きる模範を示され、
最後にはご自身のいのちを献げてくださったイエス様。神のひとり子として、私たちの罪
の身代わりとしての十字架を背負われ、死んでくださったことにより、私たちのすべての
罪は赦され、信じる者に新しく生きる道を用意してくださいました。聖書は、“ここに愛が
あるのです”と記しています。人はこの神の愛(アガペー)に触れる時に、だれでも今まで
と違う生き方をすることができると伝えています。
今日は、かつての迫害者パウロの生涯を通して、人はどのようにして新しく生きるよう
になるのかをみていきましょう。
1.かつてのパウロ
パウロは、厳格なユダヤ人として育てられました。8日目に割礼を受け(ユダヤ民族
の証)、イスラエル民族(神の契約の民の意味)に属し、ベニヤミン(最初の王サウルの
民族)の分かれの者、生粋のヘブル人で、律法についてはパリサイ人(最も厳格で尊
敬されていた)、その熱心さは教会を迫害したほどのパウロです。当時の人々には、パ
ウロほど確信に満ち、ユダヤ民族として自分を力強く生きていた人
はいないと思われていたにちがいありません。
だれでも人は、自分自身を生きるための人間としての価値観を持っています。その
価値観によって、私たちは他の人々を判断しています。パウロにとっては、厳格なユダ
ヤ民族であることが彼を支えていたと考えられます。
2.変えられたパウロ 律法の義と信仰の義
しかし、このパウロに思いもよらない出来事が起こったのです(使徒26:9-18)。国
外に逃げて行ったクリスチャンたちを捕縛する権限を得て、ダマスコに向かって行った
時、復活のキリストと出会って彼の人生は変えられたのです。
“律法の義についてならば非難されるところのない者”(V.6) と言い切っていたパウ
ロは、“損と思うようになった。ちりあくたと思っている”と変わったのです。しかも
そこには悲壮感ではなく、解放されたたましいの喜びが伝わって来ます。
キリストとの出会いは、その人の過去がどのようなものであっても命ある限りキリスト
と出会いならば変わり得るのです。
3.十字架にある希望
思いもよらない復活のキリストとの出会によって、パウロの人生は一変したので
す。“私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいの
ことを損と思っています”とのことばにも現されています。
いったいキリストの何が、人をこれほどまでに変えるのでしょうか。かつてのパウロ
は、生まれながらに与えられていたすばらしい環境と自ら選択して勝ち取って来た熱
心さが彼のすべてでしたが、キリストとの何が彼を変えたのでしょうか。それがキリス
トの十字架と復活なのです。この手紙の中に記されています(2:1-11)。