「いちじくの木の教え」
マルコ11:11-25 2012.2.5
主イエスはエルサレム入城の時、民衆からの“ホサナ、主の御名によって来られる方に”との熱烈な歓迎を持って迎えられました。その入城に際して用いられたのが“ろばの子”でした。この子ろばは“主がお入用なのです”の声かけで連れて来られ、今までに人を乗せた経験がないのに用いられたのです。私たちも主の呼びかけに応答できるよう心の準備が必要です。
今日の個所は、入城されて城内の様子をご覧になられた後に、宿泊のためにベタニヤのマルタとマリヤ、ラザロの家に行かれたようです(ヨハネ12:1-11)。ここに、ラザロたちが主イエス一行をお迎えしていたことがわかります。そこから、主イエスの一行はエルサレムを行き来していたのです。今日の箇所は、再びエルサレムに向かう途中の出来事です。
1.枯れたいちじくの木
主イエスは、過ぎ越しの祭りが始まる日曜日にエルサレムに入城され、その日はベタニヤで宿泊されました。次の日、再びエルサレムに上られる途中、主イエスは空腹を覚えられ、いちじくの木を見て近づいたのです。実が一つもなかったので、今後実がならないように祈られたのです。次の日その木を見ると根までかれていたというのです。ここにどんな意味があるでしょうか。2つの意味があるように思います。一つは、聖書にはイスラエルの民を象徴としてぶどうの木などに譬えられたりしています。主は前日、エルサレムに入城されて宮での様子を見られたことでしょう。大勢の人々が神殿の庭を行き交い、華やいではいても、それは神を心から敬うというよりも商売のために宮を利用するようになっていたことに心を痛められていたのではないでしょうか。そのため、宮の中で売り買いしている人々、両替人の台や鳩を売る者たちを追い出されたのです。その様子が、葉はたくさん茂ってはいても実が一つも無く、実る気配さえ見られないいちじくの木と宮でのにぎわいを重ね合わされたのです。
2. いちじくの木と宮での出来事
実を結ぶ見込みが無いいちじくの木が枯れることを通して、主の宮が本来の目的を回復するよう示されたのはないでしょうか。今日でもこのようなことは見られます。日本においては、多くの場合宗教は商売繁盛、家内安全、安全や合格祈願などのためになされ、一大商売化しています。教会もご利益宗教になることには十分な注意が必要です。神を敬い信仰ではなく、自分のための神信仰になりやすいものです。初めから宮にさまざまな商売が行なわれていたのではありません。少しずつ、少しずつ増えていったに違いありません。
3.信じて祈り求めよ
もう一つは、いちじくの木の出来事を通して、主が祈られたことがすぐに結果として現れたことを通して、信じて祈ることへの招きをしています。マタイの福音書(21:21)を見ると、次のように教えられています。「まことにあなた方に告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」。金持ちの救いや、からし種ほどの信仰あればなどと、私たちの思いを超えて神がなさることを期待して生きる人生へと招いておられるのです。私たちは、来年度「神の愛を伝える」を主題に、新しいコミュニティーを築くことを願っています。私たちに必要なことは、神のなそうとしておられることに、自らの心を合わせて生きるときに、私たちの思いや計画を遥かに超えた道へと進むことができるのです。常に、神に期待し、祈る者でありたいと願います。
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「時代はどこに向かっているのか」
マルコ13:1-8 2012.2.12
主イエスは、過ぎ越しの祭りの前にエルサレムに入城され民衆からメシヤと目されて熱烈な歓迎を受けられました。その後、城内で人々が商売に忙しく神を敬う心の無さに憤りを感じられ、両替人の台をひっくり返したり、商売人を追い出したりしました。その結果、当時の宗教的な指導者たちの反発を招き、命を狙われるようになったのです。
なぜ、そこまで激しく非難されたのでしょうか。主イエスは、数日後には地上での生涯を終えられることを意識しておられたので、神を礼拝する場がどのような所なのかを示めされたと思います。そんな時、弟子の一人が神殿の荘厳さに目を奪われ感嘆していた時にこの石がそのまま残ることはないと言われたのです。
1.積まれたまま残ることはない
“この石が積まれたまま残されることはない”とはどういう意味なのでしょうか。この宮は40年以上もかかっても建設中で、その荘厳さを誇っていたのでしょう。しかし、人々は神を礼拝するというよりも自分たちの生活のために忙しかったようです。彼らは、その荘厳さに目を奪われていたが主イエスは、これらの石がそのまま積まれたままで残ることはないと断言されました。長い年月とお金をかけて建て上げているものが、崩されるなどとは思いもよらなかったでしょう。それで、弟子たちは主に“いつ、起こるのですか”と聞いたのです。
私たちも昨年の震災を目の当たりにするまでは、まさかあのように大きな津波や災害が起こるとは思ってみなかったことでしょう。私はアモス書のみことばをいつも心に留めています。“まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは何事もなさらない”(アモス3:7)。ですから、神の語られたことや示されたことを私たちは受け止めて生かすべきです。私たちは震災から何を学んでいるでしょうか。
2.人に惑わされないように
弟子たちの問と主イエスが弟子たちに答えられた内容に注意すべきです。弟子たちは、“いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう”と聞いています。それに答えて主イエスは、“注意するように。惑わされないように。メシヤの名を名乗る者が大勢現れ、戦争や戦争のうわさを聞く。それらは必ず起こる。民族と国が対立し合い、地震や飢饉が起こる”と答えられました。重要なのは、人に惑わされないことです。目と耳を開いている神の言葉に聴く必要があるのです。
3.産みの苦しみの初め
更に主は、“これらは、必ず起こること、産みの苦しみの初めです”と答えられているのです。“必ず起こること”であり、“新しいいのちの誕生の初まり”なのです。この苦しみは、ただ苦しみで終わるのではなく、神のご計画の新しいいのちに至るものとのメッセージです。私たちには新しいいのちに至るための準備が必要のようです。
月2回C-BTEの基本原則の学びをしています。その学びの中で、初代教会が迫害を通して散らされることによって福音が広げられたこと、その危機的な状況にその都度ふさわしい人々が備えられた様子を学びました。初代教会は、神の御手によって、神の力によって導かれて、当時の世界に増え広がって行ったのです。それは“聖霊があなたがたに臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。”と言われたとおりに広がったのです。
いま、私たちが経験している千年に一度といわれる震災に会った者として私たちは何を聴き、何を学ぶべきなのでしょうか。神のみ心が何であるか、何をなさろうとしておられるのかに耳を傾け、目を開いて見、何をするのかが求められているのではないでしょうか。
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「近づいているその時 その①」
マルコ13:9-23 2012.2.19
弟子たちが感嘆していたエルサレム神殿について、その石が崩されずに残ることがないと主イエスが語られた後、弟子たちは何時そのようなことが起こるのかと主に問いました。それに対して主は、救い主を名乗るものに惑わされないように、戦争や戦争のうわさ、民族や国の対立、地震や飢饉などの前兆が起こることを知らされました。それらは、“産みの苦しみの初め”とされ、喜びが起こる前に必ず経験しなければならないこととされたのです。
更に、前兆として起こるべきことが続けて示されました。これらのことを通して私たちに求められていることは、時代がどこに向かっていくのかを知ることと危機的な状況の中でどう生きるべきかを示しています。
1.福音が語られる
福音が満ちるのは、どのようにしてなされるのでしょうか。クリスチャンたちの熱意によるのでしょうか。主イエスが語られら内容を見ると、意外なことに福音はクリスチャンたちの願いではなく、迫害によって満たされると記されています。
今、基本原則の学びで使徒の働きを学んでいますが、そこには“初代教会は、迫害によって主の福音が民族や文化を超えて広い地域に急速に広がったことを知ることができます。聖書には、神は弟子たちをエルサレムから地の果てにまで主の証人とするとの使命を与えたにもかかわらず弟子たちはエルサレムに留まっていました。しかし、ステパノの迫害によって彼らは散らされ、その先々で福音が語られ結果的に広がっっていったのです。神のご計画は、人間の思いを超えてなされることを知らされます。今、福音が北緯10~40°で集中的に進められています。
2.荒らす憎むべきものの登場
次に“荒らす憎むべきものが”との表現がなされています。これは旧約聖書のダニエル書にありますが、繰り返される出来事と世の終末的な予告の個所です。ダニエル書9:24-27は、聖書の中で終末論の中心的な個所の1つです。その中に“荒らす忌むべき者”と出てきます。簡潔に説明しますと70週は、62週+7週+1週(3.5日+3.5日)に分けられています。そこに興味深い意味があるのです。ダニエル書は、ヨハネの黙示録などと併せて読むと神のご計画が記されていることが理解できます。結論としては、“荒らす憎みべきものが”神の座に着くようになり、ユダヤ人への艱難が起こり、最終的な終末の時が来てユダヤ人たちが悔い改め、再臨のイエス・キリストをメシヤと認めるようになるというのです。
その時、どう行動したら良いのかを示しているのがマルコ13:14-23なのです。その時が来たなら、山に逃げるように命じられています。これはユダヤ人たちに対して語られてたことです。時代は平和に向かうのではなく、危機的な緊張状況に向かうことが予告されています。人間は平和を求めるのですが、結果的には危機が増すようになるようです。
3.気をつけるべきこと
終末的な時代の到来は、かつてなかった様な苦難の日であり、にせキリストやにせ預言者が現れて人々を惑わすようになるというのです。しかも、しるしや不思議な力によって神のような力を示し、多くの人々は魅了され、大きな課題の解決を委ねるようにのです。
それ故、惑わされることのないように前もって注意を促されているのです。私たちは、いつの時代でも注意が必要です。マルコ13:31に、“この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません”とあります。聖書は、神のことばの確実性を明言しています。私たちが見える物に目を奪われるのではなく、神のことばに聴くことが必要であることを示しています。変わることのない神のことばに耳を傾け、信じて歩みましょう。
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「近づいているその時 その②」
マルコ13:24-37 2012.2.26
先週に引き続き、今朝の個所には驚くべきことが語られています。私たちはこの時代がいつまでも続くように思い込んでいますが、聖書は何度もこの世の終わりについて言及しています。私たちは聖書のメッセージが真実であることを確かめることをしないで、自分勝手に理解しやすいので注意深く聖書のことばに耳を傾けることが必要です。
聖書は、“世の終わり”に言及しています。その前兆としは、全世界に福音が宣べ伝えられること、荒らす憎むべき者が神殿に立つこと、にせキリストや預言者が現れて不思議な力をもって選民をも惑わすようになると挙げていました。それゆえ気をつけるよう促されているのです。今朝の個所では更に警告がなされているのは、それほど重要で確かなことであることとのメッセージです。その内容を見て行きましょう。
1.揺り動かされる天の万象
先に挙げられた前兆の他に、新たな驚くべき内容が示されています。“苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされる”とあります。決してありえないと思える内容ですが、果たしてそう言えるでのでしょうか。私たちが生きている期間には起こらないと思っているだけで、地球のいたる所にはその痕跡が見られます。世界最高峰のエベレストに化石の層があること、私たちの身の回りにも大きな断層を目にすることできます。様々な地域にクレータが見られるのは天変地異があったことを示しています。自分だけの判断でなく、謙遜に耳を傾けることが必要です。
更に“その時、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです”とは、“キリストの再臨”と言われているものです。キリストが最初に来られたのがクリスマスです。聖書を見ると、長い間メシヤ(キリスト:救い主)が来られると何度も予告されていましたが、どれほどの人が期待して待っていたでしょうか。ほとんどの人が忘れていたり期待していなかったのです。今日の私たちも注意が必要です。聖書は何と言っていますか。
2.過ぎ去る時代と確かなみことば
それゆえに、注意するようにと“いちじくの木”から学ぶよう促されているのです。枝が柔らかになったら、夏が近いことが分かるように、“これらのことが起こるのを見たなら”人の子が戸口まで近づいているのです。そして、“これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません”と記されています。私の理解では、“荒らす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たなら”は、ユダヤ民族に対して語られていると信じますので、艱難時代を指しています。すでにこの時は異邦人の恵みの時は終わっています。
更に驚くべき記述が続きます。“この天地は滅びます。しかし、わたし(主イエス)のことばは決して滅びない”というのです。この意味は2つ考えられます。まず、神のことばの確かさと優位性です。聖書のことばは、神が私たちに示された愛のメッセージであり、私たちがそのメッセージを通して本来の生き方に立ち返るように求めておられることです。もう一つは、“この天地”とあるのは、“新しい天と地”があることを示しています。ヨハネの黙示録(21:1)にははっきりと記されています。大切なことは、これらのことを知って生きることです。。
3.目を覚ましていなさい
今の時代が過ぎ去るとのメッセージを私たちはどう受けとめるべきなのでしょうか。 33~37節にあるように、気をつけ、目を覚まし、注意することです。今まで語られたことを受け止めて、備えることです。現代には驚くべきことが起こっています。今日、私たちの通信手段は携帯やパソコンですが、神は私たちに時代という出来事と予告でメッセージを発信してくださいました。新たな思いで、もう一度神からのメッセージに耳を傾け、備えをしませんか。